LOGIN東亜リンクス商事の会議室は、朝から張り詰めていた。
「海外エネルギー開発プロジェクトの件ですが――」
上司の声を聞きながら、
鷹宮綾乃は、静かに資料に目を落としていた。表向きは、順調。
だが裏では、数字が合わない。 説明のつかない送金。 曖昧に処理された外注契約。綾乃の胸の奥で、警鐘が鳴り続けていた。
(このまま進めば……必ず問題になる)
そして、その影に、九条ホールディングスの名前があることも、
綾乃はすでに把握していた。会議終了後、綾乃は直属の上司に呼び止められる。
「鷹宮君、この件はこれ以上深入りしなくていい」
柔らかな口調。
だが、有無を言わせない圧があった。「確認は、課長としての職責です」
綾乃がそう返すと、上司の表情が一瞬、硬くなる。
「……君は、立場をわかっているはずだ」
その言葉で、すべてを悟った。
――これは、内部の問題ではない。
――すでに、引き返せないところまで、来ている。その夜。
九条邸に戻った綾乃を待っていたのは、 書斎の灯りだった。珍しいことだった。
「座れ」
九条玲司は、立ったままそう言った。
机の上には、綾乃が集めていたものと、“同じ内容”の資料が並んでいた。
「……どこまで知っているの?」
「君と、ほぼ同じだ」
玲司は、淡々と答える。
「この案件は、誰かを切れば済む話じゃない。切れば、必ず裏が暴れる」
綾乃は、拳を握りしめた。
「だから、黙っていた?」
「だから、君を見ていた」
はっきりとした答えだった。
「この件を正面から処理するには、
東亜リンクス側に“中から切り込める人間”が必要だ」「……それが、私?」
「他にいるか?」
その問いに、綾乃は答えられなかった。
「安心しろ。君一人に背負わせるつもりはない」
玲司は、初めて一歩近づいた。
「九条ホールディングス側の責任は、俺が引き受ける」
その言葉は、命令ではなかった。
宣言だった。綾乃は、ゆっくりと息を吐く。
(逃げ場が、なくなった)
だが同時に、
一人ではないという事実が、わずかに胸を軽くした。「……条件があるわ」
「言え」
「情報は、すべて共有すること。隠し事は、しない」
玲司は、少しだけ目を細めた。
「それは、難しい要求だ」
「できないなら、この話は降りる」
数秒の沈黙。
やがて、玲司は静かに頷いた。
「わかった。だが覚悟しろ」
「何の?」
「知れば、もう戻れない」
その瞬間、綾乃は初めて、九条玲司という男の“覚悟”を、はっきりと見た。
冷たいだけの男ではない。
切るだけの人間でもない。この人は、守ると決めたもののためなら、自分が傷つくことを厭わない。
そう理解した瞬間、綾乃の中で、何かが静かに動いた。
信用はしない。
だが――背中は、預けられるかもしれない。
二人は、机を挟んで向き合う。
夫婦としてではない。 利害関係者としてでもない。同じ側に立つ者として。
その夜、
九条邸の灯りは、いつもより遅くまで消えなかった。そして――
この共闘が、二人の関係を、もう後戻りできない場所へと連れていくことを、 まだ誰も知らない。叶翔の放った言葉は、重く鋭く、一条家の広いリビングに突き刺さった。その瞬間――。沙耶の肩が大きく震える。そして次の瞬間には、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちていた。「……っ、ぅ……」両手で顔を覆い、堪えていた感情を吐き出すように泣き始める。二十四年間。胸の奥へ押し込め、誰にも理解されず、それでも耐え続けてきた苦しみ。その全てが、一気に溢れ出してしまったかのようだった。一方、竜星はと言えば――。DNA検査の結果が記された紙を手にしたまま、まるで魂が抜けたように茫然としていた。視線は紙に落ちたまま動かない。そこに書かれている「親子関係 99.9%」という数字だけが、何度見ても視界に焼き付いて離れない。広く豪奢なリビング。高級な家具も、美しく磨き上げられた床も、今はどこか虚しく見えた。その静まり返った空間に響いているのは、沙耶の嗚咽だけだった。小さく、けれど痛々しく。いつまでも、いつまでも耳に残るように響いていた。そんな中、叶翔はゆっくりと立ち上がった。鋭い眼差しのまま、茫然と座り込む竜星を見下ろす。その瞳には怒りだけではなく、軽蔑と失望が浮かんでいた。そして、静かな声で言った。「あなたが何と言おうと、俺は櫻羅と結婚する。だが、一条と九条は親戚関係にはならない。なぜなら、あんたは実の娘すら、金のために売ろうとする男だ。九条ホールディングスに、そういった輩はいらない」冷たいほど真っ直ぐな言葉だった。竜星の肩がぴくりと震える。手にしていた検査結果の紙を、ぐしゃりと強く握りしめた。櫻羅と自分の親子関係――99.9%。その紙は竜星の手の中で無惨にくしゃくしゃになっていく。やがて竜星はゆっくりと顔を上げた。その目は血走り、悔しさとも怒りともつかない感情で濁っている。そして、吐き捨てるように言った。「櫻羅が産まれる前から、お前の親父、九条玲司と沙耶の子どもだと思ってきたんだ。今更、引き留めるつもりはない。だが……俺の娘を嫁に貰おうと言うのなら、一条を立て直す手助けはしてもらおう。九条が何を言おうが、そいつは俺の実の娘なんだ。それを連れて行こうと言うのだから、金銭的な援助をするべきだろう」その言葉を聞いた瞬間だった。叶翔の中で、張り詰めていた何かが完全に切れた。ガッ――!!勢いよく竜星の胸倉を掴み、そのまま無理やり
ノヴァ・テクノロジーズ最上階の執務室。先ほどまで電話の音とキーボードを打つ音が絶え間なく響いていたその部屋に、綾乃の言葉が静かに落ちた瞬間――。玲司と圭の動きがぴたりと止まった。サンドウィッチを手にしたまま、二人はほぼ同時に顔を上げる。そして、無言のまま互いの顔を見合わせた。言葉はなくても、何を思ったのかは手に取るように分かる。――とうとう行ったか。そんな思いが二人の表情に浮かんでいた。数秒の沈黙のあと、今度は二人そろって綾乃のほうへ視線を向ける。綾乃はそんな二人の反応が面白かったのか、くすっと小さく笑った。そしてコーヒーカップを手に取りながら、どこか誇らしげに言う。「父親に似て、好きな女の子はちゃんと守るわよ」その言葉には、母親としての確かな自信と、息子への絶対的な信頼が込められていた。そう言い終えると、綾乃はふっと玲司のほうを向き――。いたずらっぽく、片目を閉じてウィンクをした。「……っ」圭は思わず吹き出しそうになるのを堪える。一方の玲司は、一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと口元を緩めた。だが、その瞳の奥には、息子への信頼と、これから起こるであろう戦いへの期待が静かに宿っていた。――その頃。一条家の広いリビングには、重苦しい空気が流れていた。高級な家具に囲まれ、豪奢なシャンデリアが頭上で輝いているにもかかわらず、その場に漂う空気は冷たく張り詰めている。ソファには、一条竜星と南條沙耶が並んで座っていた。竜星は相変わらず仏頂面で、先日、玲司に殴られた頬の腫れがまだ痛々しく残っている。青あざの浮かんだ顔はさらに不機嫌さを際立たせ、見る者を自然と身構えさせるほどだった。その隣に座る沙耶は、そんな竜星を横目で見ながら、冷めた視線を向けている。もはや怒りすら通り越し、呆れ果てているようだった。その向かい側のソファには、叶翔と櫻羅が並んで座っている。二人とも背筋をまっすぐ伸ばし、緊張感を漂わせながら前を見据えていた。静かな沈黙がしばらく続いたあと――。先に口を開いたのは竜星だった。不機嫌さを隠そうともせず、叶翔を睨みつける。「今度は何の用だ。お前は九条の御曹司のクセに、その娘をどうするつもりだ?」吐き捨てるような言い方だった。その言葉を聞いた瞬間、叶翔の拳にぐっと力が入る。テーブルの下で握り締めた拳が、わず
高くそびえる鉄製の門扉。その向こうに広がる一条邸は、まるで城のような威圧感を放っていた。広大な敷地の奥には重厚な洋館が見え、手入れの行き届いた庭木が並んでいる。だが、その豪華さとは裏腹に、そこに立つ者の胸を自然と重くさせるような、張り詰めた空気が漂っていた。その門の前に、叶翔と櫻羅は並んで立っていた。二人とも、いつもより言葉が少ない。互いに何も言わずとも、これから向かう先がどれほど重要な場所なのか、十分すぎるほど分かっていた。その少し後ろでは、颯太、瑛士、悠臣の三人が息をひそめるようにして二人を見守っている。普段なら騒がしい三人ですら、今だけは冗談一つ言わず、ただ静かに立っていた。叶翔はゆっくりと振り返る。その視線を受けた三人も、自然と背筋を伸ばした。そして叶翔は短く言った。「お前たちはついてくるな」その一言には、迷いも甘えもなかった。自分がやるべきことは、自分でやる。その強い意志がはっきりと伝わってくる声だった。颯太は一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたが、すぐに口を閉じる。瑛士も悠臣も、真剣な表情のまま叶翔を見つめ――そして、無言で頷いた。それだけで十分だった。叶翔は再び前を向き、今度は隣に立つ櫻羅へ視線を向けた。櫻羅も、門の向こうを見つめたまま小さく息を整えている。叶翔はそんな櫻羅の表情をじっと見つめた。本当に覚悟はできているのか。これから先、後戻りできない道へ進むことになるかもしれない。その確認をするように、もう一度ゆっくりと言葉を紡ぐ。「櫻羅。お前のお父さんに、血液鑑定の結果を見せる。そして、お前と結婚したいと伝える。ただ、九条コーポレーションとは何の関係もなく、今後も九条コーポレーションの財産を充てにするなと伝えるが、いいか?」その言葉を、櫻羅はまっすぐに受け止めた。少しだけ伏せていた瞳を上げ、叶翔の顔を見る。その瞳には、もう迷いはなかった。櫻羅もまた、真剣な眼差しのまま静かに頷いた。「ええ。私も叶翔と結婚するなら、一条とは縁を切ることも仕方ないと思ってる」その言葉に、叶翔の表情がわずかに柔らかくなる。彼はそっと櫻羅の手を取った。細く、少し冷たくなっていたその手を、自分の手でしっかりと包み込む。そして、櫻羅の目をまっすぐ見つめながら、小さく頷いた。もう迷う必要はない。二人の覚悟は同じだっ
叶翔の部屋を出た綾乃は、静かにドアを閉めると、その場で小さく息を吐いた。ホテルの廊下は深夜らしい静けさに包まれている。足元を照らす間接照明が柔らかな光を落とし、窓の外には都会の夜景が宝石のように広がっていた。先ほどまで息子の部屋にいたせいか、綾乃の胸の奥にはまだ温かな余韻が残っている。幼かった叶翔が、いつの間にか自分の人生を賭けて守りたいと思える女性に出会い、真剣に未来を考えるようになった。その事実が嬉しくて、どこか誇らしくて、同時に少しだけ寂しくもあった。そんなことを考えながら顔を上げた、その瞬間だった。「……あら」綾乃は思わず足を止めた。目の前に、まるで最初からそこにいたかのように玲司が立っていたのだ。壁にもたれかかるでもなく、ただ静かに綾乃を見つめている。その鋭い瞳の奥には、いつもの冷徹な経営者の顔ではなく、どこか柔らかな感情が宿っていた。綾乃は少し驚いたように瞬きをした。「玲司……起きていたの?」だが玲司は何も答えなかった。代わりに、一歩、また一歩と綾乃へ近づいてくる。綾乃が何か言おうとした次の瞬間――。ふわりと、温かな腕に包み込まれた。「……っ」玲司は何も言わないまま、綾乃を優しく、それでいて離したくないと言うように強く抱きしめていた。広い胸に顔を埋める形になった綾乃は、ふっと力を抜く。昔からそうだった。玲司は言葉が少ない。だが、そのぶん行動で全てを伝えてくる男だった。そして玲司は片手で綾乃を抱き寄せたまま、自分たちの部屋のドアを開けると、低く優しい声で言った。「お前は本当にいい女だな」その言葉に、綾乃は一瞬目を丸くしたあと、くすっと笑った。昔から何度も言われてきた言葉。けれど、何年経っても玲司の口から聞くたびに胸が熱くなる。綾乃もそっと玲司の体を抱きしめ返すと、穏やかな声で言った。「私たちの最愛の息子でしょ。幸せになってくれなくちゃ」その言葉を聞いた玲司は、しばらく綾乃の顔をじっと見つめていた。愛しいものを見るように。誇らしいものを見るように。やがて、小さく微笑む。「そうだな」そう言った次の瞬間――。玲司は綾乃の顎にそっと指を添え、ゆっくりと顔を近づけた。そして、綾乃の唇に深くキスをした。長年連れ添った夫婦とは思えないほど、熱く、優しく、深い口づけだった。綾乃は目を閉じながら
その日、叶翔は朝から櫻羅を連れて街へ出ていた。高層ビルが立ち並ぶ華やかなショッピングエリア。ブランドショップや高級ブティックが軒を連ねる通りを、叶翔たちは何軒も歩き回っていた。目的はただ一つ。櫻羅を、一条家へ正式に挨拶へ連れて行くためだった。その大切な日に、櫻羅が少しでも不安を感じないように。少しでも堂々と胸を張っていられるように。その思いだけで、叶翔は一切妥協せず、一軒一軒丁寧に店を回っていた。もちろん、こういう買い物に慣れている悠臣も一緒だ。むしろ、こういう場では悠臣の右に出る者はいないと言っていい。「いや、それだと少し可愛すぎるな……叔父さんたちに会うんだろ? もう少し上品さを出した方がいい」悠臣はラックに並ぶドレスを眺めながら、真剣な顔で言った。「じゃあ、これは?」櫻羅が遠慮がちに手に取ったワンピースを見て、悠臣はすぐに首を横に振る。「それも悪くないけど……うーん、櫻羅ならもっと映えるものがあるはず」「お前、いつからスタイリストになったんだよ」颯太が呆れながら言うと、悠臣は胸を張った。「センスの違いだよ」そんなやり取りをしながらも、叶翔は真剣だった。櫻羅が試着室から出てくるたびに、じっと見つめ、少しでも気になるところがあればすぐに首を振る。「それも似合うけど……もっといいのがある」「え、これでも?」「……ああ」櫻羅は少し困ったように笑ったが、その横顔はどこか嬉しそうでもあった。結局、ブティックを何軒も回り、フォーマルなワンピース、ヒール、バッグ、小物まで揃えた。だが、それで終わりではなかった。そのあともジュエリーショップへ向かい、ネックレスやピアスまで選び始めた叶翔に、さすがの櫻羅も驚いていた。「叶翔……こんなにいらないよ?」「必要だ」「でも……」「嫌な思いはさせたくないんだ」その一言に、櫻羅は何も言えなくなってしまった。気づけば、叶翔の両手にはブランドの紙袋がいくつも下がっていた。――そしてホテルへ戻ると、リビングでは綾乃が待っていた。時計を何度も見ていたのか、叶翔たちの姿を見つけるとほっとしたように微笑む。「どこへ行っていたの?夕食をどうしようか悩んでいたんだけど」そう言いながら叶翔の手にぶら下がった大量の紙袋を見た瞬間、綾乃の顔がふわりとほころぶ。「櫻羅ちゃんにプレゼントを選ん
五人は、街の中心部から少し離れた場所にあるカフェのテラスの丸いテーブル席に腰を下ろしていた。青く澄み渡った空からは、やわらかな陽射しが降り注ぎ、心地よい春の風がゆっくりと頬を撫でていく。街路樹の葉がさらさらと揺れ、遠くから聞こえてくる人々の笑い声や車の走る音さえも、どこか穏やかに感じられた。オープンテラスには色とりどりの花が飾られ、白いパラソルの下では多くの客たちが思い思いの時間を楽しんでいる。そんな開放的な空間の中で、櫻羅はまるで子供のように目を輝かせていた。どうやら、こんなふうに外のテラス席でゆっくりとお茶や食事を楽しむのは初めてらしい。きらきらとした瞳で辺りを見回し、行き交う人々や並べられた花々、テーブルの上に置かれたメニューやカトラリーにまで興味津々といった様子で視線を向けている。そんな櫻羅の姿を見ているだけで、こちらまで自然と頬が緩んでしまう。「櫻羅、なんでも好きなものを頼めよ、俺のおごりって言っただろ」颯太が胸を張りながら、得意げにそう言った。まるで自分が世界一頼れる男だとでも言いたげな表情に、櫻羅は思わずくすりと笑う。「ほんとにいいの?」そう尋ねる櫻羅に、颯太はさらに胸を張った。「当たり前だろ。遠慮すんなって」その様子は、まるで妹の面倒を見る兄のようでもあり、どこか微笑ましかった。一方で悠臣も、すっかり世話役モードに入っていた。メニューを手に取ると、櫻羅の隣に少し身を寄せながら、料理の説明を始める。「これはこういう料理で……」写真付きのメニューを指差しながら、一つ一つ丁寧に説明していく。「こっちは少しスパイスが効いてるし、これはクリーム系。櫻羅、苦手なものとかある?」悠臣の質問に、櫻羅は少し考えるように首を傾げたあと、小さく首を横に振った。「特にないかな……全部おいしそう」「じゃあ悩むなぁ」悠臣が本気で悩み始めると、颯太が横から割って入る。「だから好きなの頼めって言ってんだろ!」「お前が決めることじゃないだろ」そんな二人のやり取りに、櫻羅は声を立てて笑った。その光景を少し離れた席から静かに見つめているのが叶翔だった。目を細めながら、何も言わず櫻羅を見つめる。その瞳には、言葉にしなくても分かるほどの愛情が溢れかえっているようだった。楽しそうに笑う櫻羅。無邪気にはしゃぐ櫻羅。その一つ一つの表情







